京都御池通油小路の料亭「亀政」の子として生まれる。本名は恒吉。 1898年に創立された前期日本美術院の展覧会に出品。その頃の画風は、円山・四条派の手法を基礎とした古画風であったが、1907年の文展開催にあたっては、審査員に推され、以後文展・帝展に多くの傑作を発表。1913年には早くも帝室技芸員に任命され、画壇の代表的存在として活躍する一方、1920、21年の2度にわたる中国旅行以来、写実にもとづく軽妙洒脱な筆致による新たな画境の開拓も試みている。 1937年第1回文化勲章受章者となる。